書評(神道的解説)

『反応しない練習』(草薙龍瞬)を神道的に読み解いてみるとどうなる?

今回の記事では、

インド仏教指導僧である草薙龍瞬さんの『反応しない練習』について、

書評的にまとめていきたいと思います。

本書は、仏教の教えをベースに、いかに幸せに生きるかを説いているのですが、

いや、もう、「開運」につながる記述が満載です。

そもそも、本来の仏教の世界では、

「開運」というような考え方はあまりなじまないと思われます。

でも、仏教的な視点からであれ、

幸せに生きる方法や考え方を説いているんですから、

それは必然的に「開運」つながる内容となります。

まさに、このブログでテーマにしている『開運の神様』にも連なる話なんですね。
(むりやり(汗))

というわけで、この記事では、『反応しない練習』を神道的に紹介していきましょう!

本書の概要

本書での内容を一言でまとめると、

人は、「反応しない」ことで悩みや苦しみから抜け出すことができる

というものです。

どんな人でも、

  • 「あの人のあんなところが嫌だ」
  • 「あの人のああいう言い方に腹が立つ」
  • 「なぜ自分だけこんなに嫌な目に合うのだろう」
  • 「もっと〇〇だったらいいのに…」

など、身の回りの出来事や状況に対してなにかしら「反応」します。

本書では(というか仏教的な考えとしては)、

この「反応」こそが不幸の元凶と考えます。

身の回りの出来事や状況に次から次へと「反応」してしまうから、

悩みと苦しみのループから抜け出せなくなる、と考えるのです。

なので、逆に、この「反応」をやめることができれば、

悩みと苦しみのループから抜け出せる、というわけです。

とはいえ、身の回りの出来事や状況に「反応」しないことは、

そう簡単にできるものではないです。

そこで、本書では、「反応しない練習」方法をいくつか紹介してくれています。

そして、

本書でいくつか紹介されている反応しないための練習で本質的なことは、

心の状態を見る

ということにあります。

心の状態を見ることが「反応しない」ための本質的な練習方法だというのは、

仏教的には、今、自分の心がどのように「反応」しているのかを認識することで、

逆にその反応(=悩み、苦しみ)を手放すことができる、という考えが前提にあります。

というのも、

人は、何かよくわからないものに対してはモヤモヤとしたものを抱えますが、

対象がはっきりすると、それだけで落ち着いたりするものだからです。

例えば、きつねも、原因不明の体調不良に悩まされているときに、

病院ではっきりと病名が診断された途端に、なぜか安心する…

そんな経験がありますが、

これなんてまさに対象がはっきりすることで落ち着きを得られる例です。

悩みや苦しみも同じで、なんとなくモヤモヤ、イライラしているときに、

「あ、私はいまイライラしてるんだな」

と心の状態を見て、認識してあげるだけで、

モヤモヤが消え去る(あるいは軽減する)ことになります。

そんなふうに、心の状態を見ることで、

悩みや苦しみの多くが消え去ったり、

軽減されたりする、と仏教では認識するのです。

ちなみに、仏教のこのような考え方を全面に押し出して、

心を見るための技術をトレーニングするのが、

マインドフルネス瞑想です。

本書ではマインドフルネス瞑想について詳しく述べられているわけではないですが、

本書で紹介されている内容はマインドフルネス瞑想に通じるものがあります。

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仏教でも”快”を追い求めても良い

本書を読んで、きつね的に意外だったのは、

仏教でも”快”を追い求めることは否定されない

ということです。

仏教といえば、禁欲的な修行のイメージがあるのですが…

たしかにそれも仏教の一つの側面ですが、

在家の人々にそこまで求めるようなものではない、というのが本書のスタンスです。

仏教においても、欲求を素直に、否定することなく、

満たしてあげることが幸せへの近道と考えます。

ただし、”快”を求めることで、逆に悩みや苦しみが生まれるようなら、

それは間違った反応をしているのではないか、ということになります。

本当にお釈迦さまが”快”を求めることを否定していないとすれば、

自由に生きられるような気がして、ちょっとうれしい気がします。

ただ、よく考えると、仏教そのものが、あるいは宗教自体が、

ある意味、究極の”快”を求めるものなんですけどね。

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生きることはラクではない

仏教の世界観は、

生きることはラクではない

というところにあります。

仏教のこの世界観は現実世界を正直に認識するもので、

すごく大事な考え方だと思います。

ですが、きつねは、昔から仏教のこの世界観に違和感がありました。

「たしかに、この世界を生きることはラクではないけど、

そう考えて、そこに救いはあるのかい?」と。

ただ、本書を読んで、その違和感は、

きつね自身が単に浅かったことがわかりました。

本書では、この、”生きることはラクではない”という世界観は、

あくまでも、

ここから苦しみのない人生を作っていこうという出発点

にすぎない、と解説します。

むしろ、「反応しない」ことを前提に、

今できることを大切にして、よき地平にたどり着けますようにと、明るい希望をもって願う

すなわち、

これからの人生を信頼する

というところに仏教の本質的な教えがある、とするのです。

良かった…

この世界を生きることは苦しみに満ちている、と言われたとして、

そこになんの救いがあるのか…

長年きつねが仏教の教えに対して抱いていたイメージをやっと修正することができました。

慈・悲・喜・捨

そして、

これからの人生を信頼して生きていくための心の具体的なあり方として、

慈・悲・喜・捨

の精神で生きることを勧めます。

慈・悲・喜・捨というのは、

  • 慈しみ:相手の幸せを願う心
  • 悲しみ:相手の悲しみを自分の悲しみとできる心
  • 喜び:相手の喜びを自分の喜びとできる心
  • 捨てる:反応しない

という精神です。

こうした心のあり方は、

教科書的には正しいとわかっているのですが、

実践するのはむずかしいですね。

きつねとしては、まずは、「捨てる」こと=反応しないことから手をつけたいと考えています。

というのも、

慈・悲・喜・捨を実践しようと試みてうまくいかないことばかりだったとしても、

そのことに「反応しない」ことがいちばん重要なことですから。

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神道的にどう解釈する?

きつねは、仏教も神道も、

人間が幸福に生きるための便法だと考えていることもあって、

両者の目指すところは同じだと考えます。

ただ、その前提とする世界観は両者で異なるように思います。

つまり、

仏教は、”生きることはラクではなく、苦しみに満ちている”と考えることから出発します。

でも、神道の出発点は、”万物には神さまが宿り、光り輝いている”と考えることにあります。
(穢によって輝きを失っていることが多いですが)

とはいえ、アプローチは違えど、両者とも、結局は、

”人はどうすれば幸せに生きることができるか”という共通のゴールにいきつきます。

そして、ゴールは共通ですから、仏教の考えも神道的に理解することができるはずです。

例えば、「反応しない」ことでムダな思考を削ぎ落とすという仏教の考え方は、

神道的には、日々の反応によって心身に蓄積した穢(けがれ)を、

お祓いすることでリセットする、ということにつながります。

ただ、神道には、いわゆる”教典”や”教え”は存在せず、

仏教のように、ゴールに向けた論理的なトレーニング方法が構築されているわけではないです。

むしろ、”教典”や”教え”よりも、実際に、神社に参拝して、

神社の空気感を感じたり、

お祓いしてもらって神さまの存在を感じたり、

何かしらの具体的な行動によって清浄な空気を感じることが大切です。

そういう意味で、神道は、

浄化によるエネルギー回復を”体感”することがそのコアな部分となります。

そして、きつねは、神道的な清浄の感覚こそ、

仏教的な「反応しない練習」によってたどり着くことができる境地だと考えています。

神道と仏教の違いを踏まえつつ、

両者をうまく活かそうと考えるなら、

仏教の教えに基づき、「反応しない」ための練習を重ねながら、

神道の祓いによる清浄化の体感も積極的に取り入れていく

といった方法で望むのが良いということになります。

つまり、神道と仏教がともにめざす境地を神道的に体感し、

その感覚を仏教的なトレーニングによって身体に落とし込む

といったところです。

神道と仏教の良いとこどりで、

新しい幸せな生き方ができるようになるのでは、

と考えます。

それでは最後までありがとうございました。

みなさまの開運を心より祈念いたします。

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