引き寄せの法則と言っても、語る人によっていろんな捉え方とか、説明の仕方があるかもしれません。
なのでこの記事では、元祖引き寄せ本と考えられる『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)に従って、引き寄せの法則の内容について解説したいと思います。
この本には、主に、著者でもあるエスター・ヒックス、ジェリー・ヒックスというスピリチュアルに関心のある夫婦と、エイブラハムという霊的存在が登場します。
ある日を境にエイブラハムがエスターに憑依するようになったことから、エイブラハムは、エスターを通してジェリーと引き寄せの法則について問答するようになります。
本書は、その問答の内容をジェリーが書き留めるという形で整理されたものです。
(分量的に何日もかけてのことだと考えられます。)
霊的存在との対話という怪しげな設定ですが、僕的にはエイブラハムが語る引き寄せの法則は、まさにエイブラハムが言うように、「宇宙の法則」じゃないかと思います。
なぜなら、僕たちは多かれ少なかれ、心のどこかで宇宙の法則について想像しているところがあって、エイブラハムが語る内容は、それと見事に合致するからです。
エイブラハムが語る「引き寄せの法則」
エイブラハムによると宇宙には3つの法則が存在するとのことで、それが、
- 引き寄せの法則
- 意図的な創造の法則
- 許容し可能にする術
の3つとなります。
さらに、この3つの法則によってもたらされる効果をより確実にするためのテクニックとして、
が紹介されます。
それぞれについて本書の内容と僕なりの解説を加えて整理してみましょう。
引き寄せの法則
引き寄せの法則とは、それ自身に似たものを引き寄せるという法則です。
昔の人たちは経験上、「引き寄せの法則」的なものがあることをわかっていたんでしょう。
たとえば、
- ”類は友を呼ぶ”
- “同じ穴の狢(むじな)”
- “蛇の道は蛇”
- ”似たもの同士”
- ・・・
など、まさに「それ自身に似たものを引き寄せる」という内容を表した慣用表現が結構あります。
また、たとえば、関西だとFM802というラジオチャンネルが有名ですが、当然ながら、FM802を聴こうと思ったら、手持ちのラジオの周波数をFMの802に合わせないといけません。
電波の送り手と受け手双方の波動(周波数)が合致するからFM802が聴けるようになる、というのは「引き寄せの法則」の表れだと本書では紹介されています。
(もちろん、本書では、ラジオの周波数帯としてFM802が紹介されているわけではないですが…)
ラジオの事例以外にも、音叉の共鳴(共振)の実験などは、引き寄せの法則を考えるにあたってすごくわかりやすい事例になります。
(音叉の事例は本書では紹介されてないですが、まさに引き寄せの法則の現れです。)
音叉にはそれぞれ固有の振動数があります。
たとえば、440Hzの音叉と442Hzの音叉を同じ実験台の上に置いたとしましょう。
音叉を鳴らすとブォーンという音の波が波動として空気中を伝わるわけですが、周波数というのは、1秒間に伝わる音の波の数のことを言います。
なので、440Hzだと、1秒間に440個の波が空気中を伝わることになります。
この時、440Hzの音叉を鳴らしても、442Hzの音叉は何ら反応しません(共鳴しない)。
逆に、442Hzの音叉を鳴らしても、440Hzの音叉は共鳴しません。
ここにもう1台、440Hzの音叉を加えてみます。
そうすると、実験台の上には、440Hzの音叉が2台、442Hzの音叉が1台となります。
そして、440Hzの音叉を鳴らしてみます。
すると、もう1台の440Hzの音叉が共鳴しだします。
もちろん、442Hzの音叉は無反応のままです。
この実験から、同じ振動数(=波動)の音叉は共鳴することがわかります。
これが「引き寄せの法則」の原理を表しています。
小学校か中学校の理科の実験でやったようなことが、実は宇宙法則を証明していたりするのです。
この”固有の振動数(波動)が同じ場合に共鳴が起きる現象”は、僕たちの現実社会においても当てはまるのですが、その理屈を簡単に解説すると、以下のようになります。
およそ宇宙に存在するあらゆる物質は極微に分解していくと、エネルギー、つまり波動によって構成されます。
分子よりも原子よりも、原子核よりももっと小さな世界…いわゆる素粒子と言われる世界ですね。
そして、人間の思考も極微に観察すると電気信号の流れなので、思考=電気=物質と考えられます。
とすると、人間の思考も究極的には波動となるので、その波動と同じ周波数をもつ状況が引き寄せられて現実化すると言えます。
というのが理屈です。
この考え方の整理はこちらの記事で記載したものをわかりやすく表現したものです。
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「思考」との関係で、僕たちの身の回りで見ることができる引き寄せの法則の事例を紹介してみましょう。
たとえば、映画でカッコいい俳優が乗っていた赤い車に憧れて、自分も赤い車が欲しいと思い始めた場合…
今まで街中を眺めても気が付かなかった赤い車が目に飛び込んでくるようになる…
そんな経験は誰しもあるんじゃないでしょうか?
(車でなくても、犬とか猫とかのペットでも、洋服とかカバンとかでもよいです。)
これは僕たちの思考の対象が「赤い車」に向けられた結果、僕たちの思考は「赤い車」という波動を出すようになります。
そうすると、街中を走る「赤い車」という波動と共鳴し、その存在をキャッチするようになるわけです。
ラジオの周波数を受信する事例や音叉の共鳴の事例と理屈は同じです。
この現象は心理学で"カラーバス効果"と呼ばれる現象ですが、引き寄せの法則の現れと考えられているのです。
先人が残したことわざや慣用句、ラジオの周波数の事例、音叉の共鳴の事例、カラーバス効果から、「それ自身に似たものを引き寄せる」という引き寄せの法則が、(宇宙にまで存在する法則であるかはさておき、)僕たちの現実社会の原理として存在することはおわかりいただけたでしょうか?
意図的な創造の法則
続いての、意図的な創造の法則とは、わたしが考え、信じ、期待したことは、実在するということで、もう少し噛み砕くと、「何かを考えると、望んでも望まなくてもそれが存在として現れる」というものです。
広い意味で「引き寄せの法則」という言葉を使うときは、「意図的な創造の法則」までを含んでいると思いますが、本書では、引き寄せの法則を細分化して整理し、狭い意味での「引き寄せの法則」と、「意図的な創造の法則」とを分けて説明しています。
(以下、この記事で「引き寄せの法則」と記載する場合は、狭い意味での「引き寄せの法則」を表すものとします。)
「引き寄せの法則」が「似たものを引き寄せる」という外形的・客観的なルールの記述だとすると、「意図的な創造の法則」は、「わたしが考えたことが存在として現れる(=引き寄せる)」という内面的・主観的なルールの記述だと言えます。
客観的なルールを使いこなすためには、主観的なルールを熟知しないといけない…ということになるでしょうか。
僕的には、「わたしが考えたこと」の匙加減がすごくむずかしいと感じていて、これまで「引き寄せの法則」を使いこなすことなんてできないと考えていました。
むしろ、自分が望まない結果を引き寄せてしまう危険性があるのではないかとも感じていたんです。
そうした危惧を整理した記事がこちらです。
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ただ、今回、きちんと本書と向き合い、熟読してみると、「わたしが考えたこと」をコントロールすることは可能なんじゃないかと思えてきました。
というのも、本書では、自分が望んでいるものと望んでいないものとを区別する指標として感情を観察することが大切だと繰り返し述べているのですが、たしかに、繰り返し出てくる内容を吟味していると、自分の感情を観察して大事にすることで「引き寄せの法則」を使いこなすこともできるんじゃないかと思えてきたからです。
おそらく、僕が抱いていた危惧は、頭の中だけで自分が望んでいるものと望んでいないものとを整理しようと考えていたからだと思います。
たとえば、「お金持ちになりたい」と望んでいる場合、頭の中では、必ず、「現状はお金持ちじゃないけど」という真逆の思考がセットで存在しています。
なぜなら、「現状はお金持ちじゃない」からこそ「お金持ちになりたい」と望んでいるので、「お金持ちになりたい」という思考には必然的に「現状はお金持ちじゃない」が隠れてくっついてくるのです。
この陰と陽の思考はコインの両面みたいなもので、切り離したくても切り離せません。
そうなると、頭の中の存在だけを見た場合、望んでいることも望んでいないことも、同じだけの情報量があると考えられます。
(コインの両面の如く)
とすると、このどちらに「引き寄せの法則」が適用されるかはよくわからないのです。
望めば望むほど、同じ量の望まない思考が存在するために、逆の引き寄せが起きてしまうんじゃないか…そう思っていたわけです。
でも、今回、本書を改めて熟読してわかったのは、それを回避する方法があるということ。
それが、思考に反応する自分の感情を観察する方法(「感情ナビゲーション」)です。
具体的には、「お金持ちになりたい」と思考するのと一緒に、感情も味わってみるという方法です。
「お金持ちになりたい」という思考は、もちろん、あなたが望むものですから、お金持ちになることを想像することは心地良く感じるでしょう。
どんなお金持ちなのか、具体的に思い浮かべてみると、感情もより詳細になったり、より強くなったりします。
感情がより具体的で強いほど、引き寄せはより早く実現されます。
逆に、望んでいないことに対しては、その思考について感情を味わう必要はありません。
思考の中で望んでいることと望んでいないことがセットで存在するのは仕方ないですが、感情まで追っかけていく必要はないのです。
こうやって、「感情ナビゲーション」を上手に使いこなすことで、引き寄せのリスクを回避することができるだろうと、今では思い直しています。
許容し可能にする術
許容し可能にする術とは、わたしがありのままのわたしで、他者がありのままの他者であることを許容し、可能にするというものです。
広い意味の引き寄せの法則のうち、この法則が一番理解しづらいです。
本書を読んでもなかなか理解が及ばないと感じているのですが、ひとまず、現段階で僕が理解している内容を記します。
「許容し可能にする術」には2つの側面があります。
1つは、引き寄せの法則によって、自分が望むままに生きると他人に迷惑をかけてしまうのではないかという恐れを超えて、自分が望むままに引き寄せて現実を変えてもいいんだよ、という自分に対する許容という側面。
「わたしがありのままのわたしで」にあたるところですね。
もう1つは、引き寄せの法則が万人に適用されるなら、他人の引き寄せが実現されることによって、自分の望むことが制限されるのではないかという恐れ(あるいは他人の引き寄せにより自分が不快な思いをするのではないかという恐れ)に対し、本来の引き寄せの法則を理解すれば、そんな心配には及ばない、という他人側からの影響を許容するという側面。
「他者がありのままの他者であることを」にあたるところです。
まずは最初の自分に対する許容について考えてみましょう。
たしかに、僕らは小さな頃から、
- ”他人に迷惑をかけてはいけない”
- ”出る杭は打たれる”
- ”能ある鷹は爪を隠す”
など、何かと他人に遠慮することが美徳とされる環境に置かれてきたと思います。
僕はこうした感覚はある種の洗脳であり、呪いなんじゃないかと感じているところです。
(本書の筆者はアメリカ人ですが、アメリカでも日本と同じような"洗脳"があるのでしょうか?自己主張を是とするイメージが強いので、もしそうだとするとちょっと意外な気がしますね。)
こうした洗脳、呪いの影響で、僕らは引き寄せの法則を使いこなしたくても使いこなせない、つまり、「わたしがありのままのわたしであることを許容」しないメンタリティを持つに至ってる側面は少なからずあるでしょう。
この最後の法則は、そんなメンタリティは捨てていいんだよ、自分が望むこと、自分の感情が心地良くなることを引き寄せれば、自ずとそれは周りの環境とも調和するんだよ、ということを説いています。
また、2つ目の他人に対する許容についてですが、これはむずかしい問題ですね。
たしかに、引き寄せの法則は僕にもあなたにも適用されるこの宇宙のルールというのが本書の前提です。
そうすると、みんなが引き寄せを実践することで、少なからず衝突することが出てくるんじゃないかということが想像できます。
僕にとって心地よいことが必ずしも他人にとって気持ち良いことになるとは限りませんし、逆もまた然りです。
しかも本書では、引き寄せの法則は、あくまでも自分のことについてであり、他人をコントロールすることはできないとされています。
そうなると万人が引き寄せを自由に使った結果、世の中が混沌としてしまうんじゃないか、という不安に襲われます。
そして結果的に、自分が望むことが引き寄せられないんじゃないかと…
でも、エイブラハムは、自分が望むことに意識を集中していれば、自分が望むことが引き寄せられて、周りのことは気にならなくなると言います。
それに、宇宙の資源は豊富にあるので、万人が引き寄せを実行しても、資源が尽きることはないとも言います。
(故に、そもそも争いは必要ないとも)
エイブラハムが言っていることは頭ではわかります。
引き寄せの法則は自分が望むことを引き寄せるのだから、他人をコントロールするとかは問題ではなく、自分にとって望ましい状況しか目に入らなくなるはずだと。
理屈ではわかるのですが、普段身の回りには、たとえば通勤電車の中での不快感、職場で出会う困った人たち、迷惑な隣人…が溢れていて、感覚的にはちょっと腑に落ちません。
そういう意味で、この最後の法則だけは僕の理解が合ってるのか、今ひとつしっくりこない感じです。
それに、「許容し可能にする術」って、そもそも「法則」というより、心構えのような感じもするんですよね。
特に、僕がここまで言ってきたような理解が正しいものだとすると、ますますそう思ってしまいます。
あるいは、もし「法則」として理解するなら、引き寄せの法則を真に理解し実践した結果、自ずとありのままの自分、ありのままの他人を許容し可能とすることになる、と言うことかもしれません。
(そういう意味では、わざわざ「許容し可能にする術」として、独立した位置付けは必要ないかもしれません)
いずれにしても、最初の2つの法則を使っていく中で、「許容し可能にする術」を理解していないと、乗り越えられないような壁も出てくるでしょうから、まずは最初の2つの法則を使いこなすことに集中したいと思います。
節目ごとの意図確認のプロセス
節目ごとの意図確認というのは、今この瞬間に特に望むことを意識し明らかにするプロセスのことです。
節目の意図確認を行うことで、散漫だった意識が対象に集中し、引き寄せの効果をより発揮しやすくなります。
このプロセスというか、手順というか、行動前の一呼吸は、実際のところ、引き寄せの法則とか関係なくめちゃくちゃ有効なものだと思います。
引き寄せを信じる信じないに関わらずぜひ取り入れた方がいいと考えています。
これは僕の反省でもあるのですが、たとえば、今の時代って、一人一台のスマホの時代じゃないですか。
これって今自分がやろうとしてる行動に対する集中力をものすごく削いでしまうんですよね。
ご飯を食べながらYouTubeとか、TikTokとか、インスタを観たり、LINEを確認したり、ネットニュースを見たり…
あるいは、LINEのメッセージを気にしながら勉強したり…
歩きながらとか自転車乗りながらスマホを操作したり、ひどい人だと車を運転しながらスマホをいじる人もいます。
要は、僕らは今取り組むべき物事に対する集中力を欠くようなことを、常態的にやってしまっているんです。
もはや、集中しない・できない状態の方がデフォルト(初期状態)になっていると考えても良いくらいです。
だからこそ、たとえば、ご飯を食べるという「節目」にあたっては、今からご飯を食べることに意識を向ける儀式的なものをやるべきだと思うんです。
僕はそれが「節目ごとの意図確認」だと思っています。
たとえば、今からご飯を食べるぞってタイミングの時には、食べる前に、少しだけでもいいから時間をとって、
「今からおいしくご飯をいただきます。おいしくいただいたご飯は僕の体の中でしっかりと消化され、吸収され、僕の疲れを癒すための元となるし、また明日も元気に頑張るための栄養を補ってくれます。」
みたいに、これからご飯を食べることの意図とか、意味を確認する感じです。
「いただきます」にはこうしたイメージが全部乗っかっていると思うので、「いただきます」と言うだけでも良いかもしれませんが、むしろ、「いただきます」は最低限の儀式で、そこに上記のようなイメージを乗っけることが大事だと思います。
その他にも1日の生活の中に「節目」っていっぱいありますよね。
起床する時、洗面する時、ご飯を食べる時、トイレを済ます時、通勤(通学)する時、本を読むとき、仕事に取りかかる時、昼食を食べる時、帰宅する時、夕食を食べる時、お風呂に入る時、歯を磨く時、就寝する時…
誰もが「節目」としてイメージしやすいものだけでもざっとこれくらいはあるんじゃないでしょうか。
いざご飯を食べるときに、しっかりと意図確認して、その後も食べることに集中するのと、意図確認もせず、スマホを観るほうに集中しながら食べるのとでは、同じものを食べてても吸収される栄養にすごく違いが出そうな感じがしませんか?
お風呂に入る時でも、これからお風呂に入って疲れを取るんだ、と意図確認して入るのと、何も考えずに入るのとでは随分と疲れの取れ方が違うんじゃないかとも想像できます。
きっと、1回1回の差は目に見えないほんの少しのものかもしれませんが、これが毎食、毎回、毎日積み重なるとすると、長い期間を過ぎた時には、かなりの違いとなって体にも影響しそうです。
ただ、これが実践するのはすごく難しい…
もはや、今となっては、スマホを観ないでご飯を食べてる自分が想像できません…
むしろ、スマホを観ながら食べないと、何かソワソワしてしまうんですね。
それでも、ご飯を食べる直前に、最低限、意図確認だけすれば、スマホを観ながら食べることになっても今より少しはマシかもしれません。
ただ、集中して食べる場合と比べると、ジワジワとその差は出てくるんでしょうね。
それと、節目が来てるのに、ついつい意図確認することを忘れてしまうという問題もあります。
(僕だけかもしれませんが…)
節目の意図確認の重要性もわかるし、やり方もわかっていて、簡単そう…なのになかなか実践するのが難しい…
そんな感じなんですね。
それでも、へこたれず、ちょっとずつでも意図確認できれば良いと、気軽に構えながら、節目の意図確認を実践し続けたいと思ってます。
これ、数日かけて記事を書いている間に試したことなんですが、ここに書き残しておきます。
食事に意識を向けて集中して食べることって、ここまでスマホが生活の一部となった現在ではむずかしいです。
でも、それをちょっとでも変えるためにやってみたのが、休日の朝ごはんだけはスマホも新聞も我慢して集中して食べるというものです。
もちろん、食事前の意図確認もやりつつ。
平日の朝は、出勤前に新聞をチェックしておきたいので、どうしてもタブレットでデジタル新聞を読みながらの朝食になってしまいます。
朝の時間がない中なので、これはしょうがないかなと。
でも、休日の朝ならゆっくり朝食がとれるし、新聞を慌てて読む必要もありません。
それなら休日の朝だけでもと思い、スマホ(タブレット含む)も新聞も我慢して、食べることだけに集中してみました。
もちろん、食べながら仕事のこととか、趣味のこととか、いろんなことが頭に浮かんできますが、意外と集中して食べられました。
たぶん、朝食って食べるのにせいぜい10分程度しかかからないのも、食べる間集中できた理由だと思います。
そんなわけで、これからは休日の時間だけでも節目の意図確認をしっかり実践しつつ、食事に集中することを続けてみたいと思います。
みなさんもぜひいろんな工夫をしながら節目の意図確認を実践してみてくださいね。
引き寄せの法則と神社参拝
さて、ここまで長々と引き寄せの法則について紹介してきましたが、このブログは日本の神さまをお祀りして開運してみようってブログなので、引き寄せの法則の紹介だけではちょっと物足りない…
せっかくなら神社にお参りして願い事を神さまにお祈りするときに、うまく引き寄せを使って、できるだけ願い事が叶いやすいようにしたい…
そんな下心が芽生えてきます。
今回、引き寄せの法則をあらためて学んで感じたのは、引き寄せのパワーってすごい!ってことです。
ありきたりですけど…
神社でのお祈りと切り離して、毎日引き寄せの法則を実践するだけでかなりの願いが叶うんじゃないかと思います。
それならもう神社参拝はいらないね!ってなりそうですが、ちょっと待ってくださいね(汗
やっぱり神社の清浄な空間と、祈りの場として、場合によっては何百年もの間、人々の想いが積み重なってきたことを考えると、神社をあなどってはいけません。
むしろ、神社のパワーを活かしながら、引き寄せの法則を実践することで、引き寄せの効果が倍増するんじゃないかと思います。
引き寄せの法則をベースにした神社参拝の仕方は別の記事でまた整理したいと思うんですが、ポイントは、この記事で学んだ引き寄せの法則の実践感覚を、神社参拝に持ち込んだらいいんじゃないかと考えています。
というのも、神社でのお祈りって、どうしても他力になってますよね?
- 「合格しますように!」
- 「恋人ができますように!」
- 「宝くじに当たりますように!」
- ・・・
みたいに。
ちなみに、神社での祈り方についてはこちらの記事で解説しています。
ここに書かれているように、他力的な祈り方が基本です。
↓↓↓
これを自力に変換するのが引き寄せベースの祈願です。
引き寄せによって結果が得られることを前提にして、それを神さまの前で宣言するようなイメージです。
たとえば、
「めちゃくちゃ勉強するので当然合格します!」
「自分を磨きまくっていい男(女)になるので恋人つくります!」
「宝くじ買いまくるので絶対当てます!」
・・・これはちょっと違うかな…
むしろ、引き寄せベースで、結果を前提としつつ、結果に対する感情を味わったり、高めたりするために、神さまの前で祈るわけです。
一般的な意味の「祈り」とは違うので違和感があるかも知れません。
でも、本来の祈りの意味は、意(い)・宣る(のる)だと言います。
つまり、自分の考え(意)を神様の前で宣言する(宣る)ということです。
こういう引き寄せベースの神社参拝の考え方なんて聞いたり読んだりしたことはないですが、僕的には本来の神社参拝ってこういうことなのかも知れないって思い始めています。
まぁ、結果はどうなるかわかりませんが、僕はこの新しい観点からの祈りのために神社参拝を続けようかと思います。
経過を含めて記事にして報告しますね。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
みなさまの益々の弥栄を祈念いたします。
≪…「何かを考えると、望んでも望まなくてもそれが存在として現れる」…≫について、数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を、
「i」 西加奈子 著 のマントラのセンテンスで、数の言葉の世界を≪…「引き寄せの法則」…≫で観る。
「この世界にアイは、存在しません。」 25回
「この世界にアイは、」 6回
「この世界にアイは、存在する。」 1回
このマントラの個数こそ「数のヴィジョン]だ。
この情景は・・・
愛のさざなみ」の本歌取り[ i のさざなみ ]
この世にヒフミヨが本当にいるなら
〇に抱かれて△は点になる
ああ〇に△がただ一つ
ひとしくひとしくくちずけしてね
くり返すくり返すさざ波のように
〇が△をきらいになったら
静かに静かに点になってほしい
ああ〇に△がただ一つ
別れを思うと曲線ができる
くり返すくり返すさざ波のように
どのように点が離れていても
点のふるさとは〇 一つなの
ああ〇に△がただ一つ
いつでもいつでもヒフミヨしてね
くり返すくり返すさざ波のように
さざ波のように
[ヒフミヨ体上の離散関数の束は、[1](連接)である。]
(複素多様体上の正則函数の層は、連接である。)
数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺めると、[岡潔の連接定理]の風景が、多くの歌手がカバーしている「愛のさざなみ」に隠されていてそっと岡潔数学体験館で、謳いタイ・・・