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鬼滅の刃【無限列車編】と神道的世界観(ネタバレあるかも!?)

きつね
きつね
今話題の鬼滅の刃の映画を観てきたよ!
牛太郎
牛太郎
え〜!いいな!
で、どうだった?
感想聞かせてよ。
きつね
きつね
いや、もう、きつね家の長男と奥さんと3人で観たんだけど、3人とも大号泣!
大変だったよ(笑
ネタバレには気をつけつつ、きつね的に感じた内容をまとめてみるね。

きつねは鬼滅の刃は全巻読んでいたので、無限列車の内容も知っていました。

なのでもちろん結末もどうなるのかも知っています。

でもわかっていても大号泣…

やっぱり映画館の迫力で観ると感情移入も深くなって気持ちも昂ります。

で、なんだかね、悔しいのですよ。

観終わった後、すっきりしない悔しさが残るのです。

ザワザワと気持ちが落ち着かないのです。

でもそれがこの映画がヒットした理由の1つでもあるんだろうと思います。

多くの人の共感を得た”悔しさ”も含めて、鬼滅の刃【無限列車編】を神道的に解説していきたいと思います。

若干ネタバレもあるかもしれませんので、ご注意くださいね。

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炭治郎の潜在意識こそ神さまに接する究極の態度である

劇中では、下弦の壱の鬼・魘夢(えんむ)によって深い眠りに落ちた炭治郎の潜在意識があらわになります。

澄みきった青い空とどこまでも続く静寂な湖面のような映像で、炭治郎の潜在意識に触れたものの心を温かく包み込むようなイメージです。

きつねはこの映像を見たとき、あ、これが神道でいうところの「清明正直」(せいめいしょうちょく)なんだろうな、と感じました。

神道では神さまに祈るときに最も重要な心のあり様として「清明正直」を重視します。

清明正直のきつね的な理解は、

素直な気持ちで、ひたすらに神さまに祈る

というものです。

この素直な気持ちでひたすらに神さまに祈ることによって、神さまとの出会いがもたらされるということなんだろうと理解しているのです。

おそらく炭治郎の心のあり様はこれに近い状態なのだと思います。

もちろん、「神さまに祈る」という部分は炭治郎の場合はちょっと違います。

炭治郎風に言えば、素直な気持ちで、ひたすらに禰豆子を救うために戦う、そんなところでしょう。

ここの「素直な気持ち」というのは、鬼を懲らしめようとか、復讐してやろうとか、そういう動機で戦っているのではないということです。

ひたすらに禰豆子を救うために…、ただそれだけです。

だから炭治郎は鬼を殺したときでも、鬼のために祈ります。
(今回の映画の中では鬼のために祈るシーンは出てきませんが)

この映画の中では、炭治郎の潜在意識の中に入り込んで炭治郎を殺そうとする敵(人間)にすら手を差し伸べます。

また、現実世界で自分を刺した列車の運転士の命を助けるように伊之助に依頼します。

決して無駄な争いや殺しをすることはありません。

おそらく炭治郎のこのような清明正直な心のあり様が、誰よりも神さまとの距離を近いものとし、最終的にはヒノカミ神楽を体得して無惨を追い詰めることができるように導いたのです。

【無限列車編】を観る機会があれば、ぜひ清明正直という神道の究極の心のあり様から考えてみてください。

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煉獄と猗窩座の死闘に神さまの世界が垣間見える

魘夢との戦いの後、すぐに煉獄と猗窩座(あかざ)との死闘が始まります。

この煉獄と猗窩座の死闘こそ、鬼滅の根本的なテーマの1つと絡めて神道的な神さまの世界が表現されています。

まず、鬼滅の根本的なテーマとして、

永遠の命による強さの追求vs儚い命の中での強さの追求

があります。

鬼からすれば、人間の寿命という有限性の中で、しかも肉体的なピークはそのわずかしかないという制約の中で、強さを追い求めるには限界がある、と考えます。

だから強くあろうとするならば、永遠の命を手にできる鬼になれ、と猗窩座は煉獄に執拗に迫ります。

一方、煉獄は、儚いからこそ美しく、人を感動させることができる、とそれを断固拒否します。

この構図は上弦の壱、黒死牟(こくしぼう)と同じですね。

強さを追い求めて家族を捨て、人間をも捨てて鬼となった黒死牟とその弟の縁壱(一人で無惨を追い詰めることができたほどの剣の達人ですが、80歳で老衰で亡くなる)の関係と重なりますし、それは鬼滅の深いテーマということでもあります。

さて、煉獄の言う、儚いからこそ美しいという言葉は、人間の有限性を意味しますが、そこには消滅と再生というキーワードが隠されています。

当然、人間が有限であるからといって人間そのものが地球上から消滅するわけではありません。
(もちろん、何万年という先の話はわかりませんが)

個体としての人間は消滅しても、新たな個体としての人間が生まれる(=再生)のであり、消滅と再生を繰り返して人間そのものは存続します。

ちなみに、煉獄は「心を燃やせ」と劇中でも言いますが、きつね的には、人間は有限であるからこそ心を燃やすことができるんだろうと思います。

永遠に生き続けられると考えたら、心を燃やし続けることってできますかね?

実は、「心を燃やせ」というのは、鬼にはできないことなのです。

人間だからこそ味わえる、ある意味特権なのだと思います。

では消滅と再生がなぜ繰り返されるのか?

神道的には、消滅と再生という法則を司っているのは神さまということになります。

神さまが、個体としての人間の消滅と再生を司っているからそうなるのです。

そして、鬼滅の鬼の存在は、神さまが司るこのルールに対する挑戦です。

鬼は、消滅と再生のルールを無視して永遠に生き続けようとします。

だから私たちはこの神さまが定めたルールを守る戦いに共感するし、この戦いに敗れると”悔しい”のです。

とはいえ…

実は、鬼滅の鬼は私たち人間が創り出したものでもあります。

例えば、猗窩座や黒死牟が強くあろうとして永遠の命を求めた様に、それは人間の願望そのものです。

また、鬼滅の鬼はみなそれぞれ人間時代の悲しい過去を背負っています。

その悲しみから逃れるために鬼になろうとした者もたくさんいます。

つまり、人間の願望が鬼を創り出したのです。

なので、鬼滅の鬼が殲滅させられたとしても、いずれ必ず第二、第三の無惨が必ず出現します。

そういう意味では、神さまは消滅と再生のルールを用意しながら、そこからはみ出そうとする鬼の存在すら想定しているのかも知れません。

神さまにも、荒御魂(あらみたま)・和御魂(にぎみたま)といって、荒々しい側面と穏やかな側面があるように、物事には必ず両面が存在します。

「鬼」の存在も、そのような神さまの両側面の現れのひとつと考えることもできます。

【無限列車編】を観るときは、神さまが定めたルールと「鬼」という側面から考えてみると、また違った楽しみ方ができると思いますよ。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

みなさま開運を心より祈念いたします。

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